永樂園主 村田龜吉氏 東京市外烏山
その昔幡ヶ谷で露店向植物や苗木の供給者をして、一家が全部協力して働いてゐた永樂園といふのを、人は大抵知つてゐる。
今は烏山で菊の苗木を作つて日比谷の菊花大會の際などその付近で賣らせて相當この社會では知られてゐる。
氏は他の人のやうに上物とか高級物とかに目をつけないで、反對に露店賣のものに目をつけたところに、他の人と變つたところがある。
然るにこれは類が少なくて、而も要求が多いのであるからよくなるにきまつてゐる。誰も人のやつた事は氣がつかないものである。
露店賣の草物や苗木といふものは、數に於ては一番出る單價は低くても數の出るものは大きい。一年に一株より賣れないものでは十圓して、それがまるまる利益になつてもそれを作つてゐたのでは食へなくなるのは解りきつてゐるそれだのに、數のでものなら、一厘のものを、二厘に賣つても資本の倍になるのだから利益は非常な大きなものとなる。この理屈は極めて平凡であるが、さて一寸やつて見ることになると、先づ金髙の大きいものに手がつけたくなるのが人情である。
今では一流どこの店賣苗でも何でもかでも一切合財御用をたしてゐるがその方面では一流であるばかりでなく、元祖といつてもいゝ位だ。
茄子や胡瓜、トマトなどは農家に依託で作らせてゐるが花物は大抵自家で作つてゐる。溫室やフレームでは花にならないうちの苗の緑が一ぱい生々として伸びてゐる。
極めて地味で、少しも無駄口を利かず、眞面目に正直にこつこつと働くところに氏の特色はあるのだが、功成り名遂げた今日でも、十年一日の如くやはり少しの變りもなく働蜂の如く働き通してゐるのは寧ろ尊敬に價するといはなくてはなるまい。氏の一家は氏の性格にならつて、誰もかれも、まるで型にはまつたやうに孜々として働くより外に樂しみがないといふ風だ。
床しくもあり頼もしくもある一家だ。そして後の休養こそ眞の團樂であらう。
永樂園は甲州街道における唯一の成功者であり、斯業者の模範とすべき存在だ。
<昭和十二年(1937年)四月三十日発行 発行所:園藝通信社
第一号「園藝家月旦」 編集 兼 発行人 木村重孝>
より原文のまま
株式会社東海農園(東京都杉並区) 吉田幸夫様より、村田永楽園創業者について書かれた懐かしい記事が掲載された小冊子をお知らせいただきました。